コーナーマットに手をつき、あえぎながら、龍人(りゅうと)は考えていた。

(このまま……持つのか?)

 打たれ続けたボディが重苦しく疼いている。

 唾液にまみれたマウスピースを外し、エプロンに置いていたペットボトルの水で大雑把にゆすいだ。

 残った水を口に含む。そしてリングの外に吐き出した。すすいだ後も、口内には絡みつくようなねっとりとした感触が残っていた。

 

 

インタージェンダー!

ROUND1 コウハイファイト

 

 

3.拳の約束

 

(たしかに最初は油断していた……けど、よけることはできた)

 龍人(りゅうと)は息を整えながら――酸素を送り込むたびに喉がひきつった――前ラウンドの反省を行う。

(だけど、そのあと――むちゃくちゃに突っ込んでくるあの娘のパンチを喰らってしまったのは――なぜだ)

 ペースを握られ、残り時間ぜんぶ、(しず)()に嫐られるままだった。

(あんな、勢いだけの攻撃……もっと簡単にあしらえるはずだったのに……)

 と。唐突に、脳裏に幼馴染の言葉が記憶の底から浮かび上がってきた。

 

――龍人って、パンチ見えてるのに、わざとよけないみたい。ヘンなの。

 

 自分を叩きのめし、マットに沈めたばかりのグローブを差し伸べながら、“彼女”は呆れたようにそう言った。

(見えていても――体が反応しないんだ)

 普段は眼鏡をかけている龍人であるが、リングの上ではなぜか飛んでくるパンチはよく見えた。

 しかし、いつも土壇場で体が固まり、動けなくなるのだ。

(……わかってる。ぼくのちゃちな精神は、ボクシングに向いていない)

 龍人は対角のコーナーを見た。

 静香がペットボトルに口をつけながら、体育着のすそをパタパタさせている。ほんのりと桜色に染まった肌から、汗の気流が薄く立ちのぼっている。

 うなじには汗の玉が浮き、ポニーテールがぴたりと張りついていた。

 と。龍人の視線に気づいたのか、静香はこちらに流し眼をくれた。――妙に官能的な瞳だった。

 

 獲物を品定めする女豹のように、龍人の身体の隅々までなめるような眼差しを這わせてくる。自分の拳が、どれだけ相手の男を傷めつけたのか――少女はうっとりと恋人をみるような熱い視線を送ってくる。ああ、この(ひと)をどうやって壊そうか。龍人の肌を、肌の下の筋肉を、骨を、じっとりと視姦する。

 

 龍人はぞくりと身体が疼くのを感じた。

(たしかに、彼女の方が――よっぽどボクサーの本性を持ち合わせている……)

 粗削りで無駄が多いが、猫科の獣を思わせる俊敏な動作。

 そしてなにより、笑いながら男の身体を破壊できる――殺戮本能。

 このまま際限なく試合を続けたとしたら、まちがいなく、リングの上には全身を殴打され、骨が砕かれ、肉を破壊され、吐瀉と血にまみれた龍人が倒れ伏しているはずだ。

(もちろん……あと1ラウンドしのげれば、それで終わる……)

 だが、足が動くか?

 万全の状態でも、自分の臆病さからパンチを食らい、思うままに蹂躙された。

 そして今、ボディを打たれ続けたせいで、鉄でも飲みこんだかのように体が重くなってきている。

(応戦すれば、なんとか、よけきれるとは……思うけど……)

 最初の約束通り、龍人はいまのところ、静香に手を出していない。

 しかし、静香があざけって言ったように……状況は大分変ってきている。

(殴る、か――。

後輩の女子を)

 ディフェンスの技量をどれほど持っているかは未知数だが、今までの動きから考えるに、静香はスパーリングに耐えうるくらいの反応は見せるだろう。

 そうだ、問題はない。静香自身も挑発して言っていたじゃないか。

 いまさら、なにをためらう。

 女だろうと男だろうと、強いやつは強い。

 なにより、龍人はそのことをよく知っていた。なぜなら――

 

 ――龍人。いつか、絶対、もう一度、()ろうね

 

(……っ!)

 また。

 幼馴染の言葉が耳の奥で響いた。

一度も勝ったことのない相手。リングの上で殴られ続け、ついに殴り返すことのなかった……“彼女”。

 

 ――もう一度、戦るときは、今度こそあたしのことを……殴って

 

 それは、“彼女”との別れのときに交わした、遠い日の約束だった。

 

「……そうか」

 

 龍人はつぶやいた。

 マウスピースを口にはめる。

 

(そうだよな――(れい)

 

 ようやく、肝が据わった。

 

(ぼくは――殴らない)

 

 ぐっ、とグローブの下で拳を握る。

 自分の拳は“彼女”のために取っておく。

 こんな――相手の力を見くびった挙句の情けない展開の試合で、約束を違えてまで、ふるう拳なんて――そんなもの、最初からなければいい。

 

 ピピピピピピピピ……

 

 と、試合再開のアラームが鳴った。

 静香がペットボトルをエプロンに置いた。

 ゆらりと立ち上がった少女の全身から、熱く、艶やかな空気が発散されている。汗のにじんだ体操着が透け、質量のある乳房が興奮で波打つのが、はっきりと見えた。

 静香は軽く舌舐めずりをした。桜色の唇がかすかに震えている。唇の隙間から、堪えきれない様な熱のある吐息が漏れた。

ブルマから伸びる太ももがぴんと張り、少女が興奮状態に達しているのが、わかった。

熱に浮かされたような瞳が、龍人の全身を射抜いた。

 

 ――ぞくり

 

龍人は気付かれないように、小さく身震いをした。

(でも、拳を使わず――この娘を制することが、できるのか?)

 距離をとりながら、ふたりはリングの上をゆっくりと旋回する。

(……ま、やるしかないか……)

 

 ひゅんっ!

 

 猫のように静香が飛びかかってきた。

 龍人は体をずらし、槍のような突進を避ける。

 目の前をポニーテールが、ブルマ姿の少女の体が通り抜けた。

(っ、あいかわらずっ、全身をぶつけてくるような突進だ……っ!)

 間を制し、タイミングを奪い合うボクシングの原則など無視した動き。まるで、目の前の獲物を一刻も早く切り裂いてしまいたい、肉食獣のような勢い。あまりにも単純がゆえに、致命的なまでに危険。

龍人は本能的に身がこわばるのを感じた。

 

「先輩……もっとぉ、正面から、ヤりましょうよぉ」

 

 ゆっくりと、こちらを振り向きながら静香が言った。

 とろりと蕩けた目で見つめてくる。

(“正面から”って、君は一方的に殴りたいだけだろ……)

 静香の無邪気なまでの凶暴性に、龍人は汗をたらりと流す。

(……ま、初めに“殴らない”って宣言したのは、ぼくだし。仕方ないか……)

 虎の檻に鶏を放りこんでしまった、と嘆いてもはじまらない。

 龍人は注意深く前方のブルマ少女の挙動を観察する。

 静香は1ラウンド目とは違い、ぴょんぴょん跳ねまわることはせず、ゆらりと腕を垂らしながら見返してくる。

 

 じりっ…… じりっ……

 

 黒のニーソックスで包まれた脚を前に進めながら、ゆっくり龍人へと近寄ってくる。

(……怯むな。よく見ろ。よく見れば、恐れることはない)

 龍人は瞬きをせず、静香のブルマから伸びた脚を、桜色に上気する腕を、熱に浮かされたような瞳を、見る。

 

「……怯えて、いるんですか?」

「っ?!」

 

 ぽつりと静香が言った。

(……焦るなっ、身体を委縮させるなっ、ぼくは……っ)

「男の人って……バカですね。

 つまらないプライドのために、年下の女の子に抵抗もせずに殴り続けられて……」

 静香がにじり寄る。

 龍人は一歩さがる。

「こんなにボロボロになって……本当は怖くてたまらないのにぃ、まだ格好つけてる」

 くすくす……。静香は憫笑を浮かべる。

「でもね、先輩……これで終わりじゃないんですよぅ? これから、もっとすごいこと……されちゃうんですよ?

 あは……また、小さくビクンって震えましたねぇ。可愛い……♪

 そんな可愛い顔されると、壊したくなっちゃうじゃないですかぁ」

 ぼふっ。

 龍人はいつのまにかコーナーに追い詰められた。

「……っ!?」

「それで、先輩。あくまで殴り返さないつもりならぁ……むしろ、好都合ですけどね。

 思う存分、先輩の肉体……愉しませてもらいますよぅ?」

 うずうずと静香の肢体が震えている。

 処刑寸前。

 静香は本気だ。本気で、無抵抗の男を、喰い尽くすことができる。龍人は肌で感じていた。愛らしい姿に残酷な天性を秘めた少女。今、自分はとんでもない化け物を相手にしている。身体が慄く。

しかし……。

 

「……悪いけどぼくには先約がいる。君は勝手に愉しんでろ、サディスト」

 

 龍人ははっきりと告げた。

 静香は何度か瞬きをしてから、

「へえ……おもしろいこと、言うんですねぇ。

 ……“先約”って、もしかしてわたしと同じ、女の子だったりして」

 不敵に笑った。

「……」

 龍人は答えない。しかし、静香は直感で悟ったらしい。

「ひどいですねぇ、先輩。わたしがこんなに熱く先輩のことを想っているのに……。

わたしに殴られながら他の女のことを考えていたなんて……」

 ふざけたような調子で静香は続ける。

「決めました。先輩の肉体だけじゃなくて、その決意も塵一つ残さず完全に壊してあげます。

くすっ、可哀そうな先輩♪ 心も体も、ズタズタにされちゃいますよぅ」

 軽い口調、だが半ば本気で静香は宣言した。

「そして血まみれの先輩はぁ、プライドも何もかも失って惨めに泣きながらわたしの足にすがりくんです……はぁ、ん……♪」

 夢見るように、歌うように、言った。

「……」

 眼前の恐るべき少女に威圧されないように、龍人は必死で耐える。

 艶笑する静香はゆらりゆらりと左右に揺れている。と。

 

 ――だんっ!!

 

 何の予備動作もなく、

 

(っ、すごい瞬発りょ――)

 

まるで恋人のような熱烈さで、少女は懐に飛び込んできた。

 ボディがくる。龍人は反射的に腕を下げ、ブロックする。

 

 ぱんっ! ぱんっ! ぱんっ!

 

 少女のグローブが肉の上で爆ぜる。

 ブロックしても残る、焼けるような感触。

 と、突然静香のパンチの軌道が変化した。

 

 ぐしゃっ!!

 

「がっ!?」

 頬骨を思いっきり打ち抜かれた。

「あははははははっ!!!」

 拳に伝わる感触に少女は笑いながら、ラッシュを止めない。

 

 どむっ! ぱんっ! だむっ!!

 

「ぐ?! ぶっ! ひくぅっ?!」

 フックが、ジャブが。

ボディを、鼻を、またボディを交互に打っていく。

「く、あぁぁっ?!!」

 目に涙を溜め、鼻血を噴きながらも、なんとかあごを砕こうとするアッパーを叩いて止めることに成功した。

 しかしまた、始まるボディへの連打。

「ぐふっ、がっ、うぐぅっ!!」

「ほらほらほらぁっ! 先輩、どうですかっ! わたしのパンチでもっと踊って下さいっ! あはははははっ♪」

 汗を飛ばしながら、静香は龍人の腹を叩き続ける。

 龍人は、「ぐはっ! がっ!」、胃を抉るような衝撃に前のめりになる。

 ハッ、ハッ……と熱い息がかかる。

「〜〜っ!!!」

 少女の拳で容赦なく打ちのめされた内臓が悲鳴をあげている。胃液が逆流しそうだ。マウスピースを吐きだしそうになる。

 

 とつぜん、荒ぶる少女の凌辱が止まった。

 

「……ぐ、あっ、かはっ……?」

 喉をひきつらせながら、龍人は顔をあげた。

 静香がグローブをブルマに当て、仁王立ちしている。桜色になった肌はしっとりと濡れて、肩で息をしているが、少女は爽やかに慈愛に満ちた顔で微笑んでいる。

「ハァ……苦しそうですねぇ……ハァ……先輩?」

 荒い息をしながらも、うっとりとした口調でたずねてくる。

「ボディだけなら耐えられる……と思っていたんでしょうけど、結構苦しいでしょう?」

 からかうようにグローブを振っていたが、

 

 どむっ!!

 

「ひぎっ!!」

 いきなりボディブローを打ちこまれ、龍人はくの字になる。静香の身体に倒れかかるが、なんとか踏みとどまる。

「むぅ、やっぱりぃ……クリンチはしないんですね」

 真っ赤になった龍人の腹にさらに深く拳をねじりこみながら、静香はつぶやいた。

「殴り返さない。反則もしない。ダウンもしない。

 それがぁ……先輩の選択というわけですか」

 

 ずんっ!

 

「ぐぇぇ……っ!」

「悶える先輩の顔は、とっても可愛いんですが……なんか気に入りませんねぇ」

 

 どんっ! ずむっ!! ぐりぐりっ……!!! どごぉっ!!!

 

 少女の手にはめられた12オンスのグローブが、龍人の腹を叩き、血管を潰し、内臓を圧搾する。

「ふぅ」

 静香はまた、腹責めを中断する。

「あ……ひぃ……かっ、は……ぁ」

 息も絶え絶えの龍人を満足そうに眺めると、静香は腕を大きく横に開いた。ぷるん、と果実が胸で震える。汗でブラが透けて見えた。

「ほら……先輩、苦しいんならわたしの胸に飛び込んできていいんですよぅ?」

 悶絶している先輩に、静香は優しく囁く。

「ぁ……く……」

 龍人の足は小刻みに震え、上体もゆらゆらと揺れていた。

 その眼前で静香は抱きとめる体勢で、にっこりと微笑している。

 

「……ねっ? 先輩……ぎゅうって、抱きしめてあげますよぅ。身も心も、すべて……わたしに委ねてください……」

 

 そして、壊してあげます。

 抱きしめて、逃れられない姿勢で、殴って、殴って、倒れそうになったらまた支えて、肉の感触を拳で味わい、骨を砕いてあげますよ。

わたしの胸のなかで、血を流しながら痙攣してください。

壊れるまで、愛し尽くしてあげます。

 

 ふらつく龍人に、はっきりと静香の声が聴こえた。

 腹を少女の拳で犯し続けられて呼吸ができず、頭が朦朧とする。

 このまま全身を目の前の後輩に預けてしまうのも、悪い考えではないように思えた。

 何も考えられないほど、無茶苦茶にされたら、それはとても気持ちのいいことだ。

 目の前で抱擁を誘う後輩の身体は、とても柔らかそうに見える。

 

「――だけど、っ……」

 

「先輩?」

 腕をひろげたままの静香が首をかしげると、ポニーテールがふわりと揺れた。

 

「きみ、の……ひとりよがりに……つきあう義理は、ない……っ」

 

 引きつる喉から言葉を絞りだす。決意を口にすると、甘い破滅への誘惑が消える。

 静香の鋭い目がさらに細くなった。

 母性すら感じさせた微笑みとともに、静香の顔からすべての感情が消え失せた。

ひろげていた腕が落ちて、

 

「……ふぅん。

そう、です――」

 

そして、蛇のようにうねり、

 

「――かっ!!」

 

 ――ずどんっ!!

 

「かはぁっ!!!」

 渾身の一撃が龍人の腹にめりこんだ。

 喉の奥から火がせりあがってくるような、感覚。

 ピーカブースタイルに構えていたガードが緩む。

 

 ぐしゃっ!!!

 

 その隙を逃さず、静香のストレートがガードを弾き飛ばし、龍人の鼻を潰した。

「っ、ぶっ!!」

 ぴぴぴっ、と鮮血が飛び、静香の体操服に痕を残した。

 龍人の目の前がチカチカと点滅し、鼻の奥から火薬のような臭いがした。

 それでも、続けざまのフックをなんとかグローブで受け止める。

 しかし、静香はガードされても構わず、ブロックの上からパンチを重ねてくる。

「ふッ! しゅッ! このぉぉぉっ!!」

 腕の毛細血管がぶちぶちと引きちぎられる感覚。

 打撃でブロックが押されて、顔面が押しつぶされる。口の中で鉄の味が広がった。

「ほらっ!! 倒れろぉっ!! このぉっ、このぉぉぉっ!!!」

 静香の顔から笑みが消え、口からは罵倒の文句が漏れる。

 

 どむっ!!!

 

 また、ボディに強打が入った。

「かは……っ!!!」

 龍人の口からマウスピースが飛んだ。涎と血に塗れたマウスピースはリングの外へと転がって落ちた。

 

 

「ひゅっ!!」

 無防備になった顔面に、致命的な一打を叩きこもうとする静香。

 と、構えた刹那。静香の横にスペースができた。

「くあぁぁっ!!」

 龍人は踏みだし、拳の軌道の下をくぐり抜け――

 

 ばむっ!!!

 

 つむじをかすった静香の拳はコーナーマットに叩きつけられ、激しい音を鳴らした。

 龍人はぼたぼたと鼻血を垂らしながら、静香から距離を取る。

 全身から湯気を立ち昇らせた静香が、きっ、と逃げた獲物の方を振り返る。ふーッ……ふーッ……、と荒い息をつきながら、飛びかかる体勢をとった。

 龍人はよろめく足取りと、朦朧とした視界のなかで女豹に対して構えを取る。

 

 ――だんっ!!

 

 リングを蹴る、高らかな音。

 何度目かの静香の突進。あれほどのラッシュの後にもかかわらず、そのスピードはまったく衰えていない。いや、むしろ――

 

(今までで一番、迅い――

 

 殴られ続けアドレナリンがひっきりなしに分泌されたせいか。

 龍人は時間がひどくゆっくり進むのを感じていた。

 瞼が腫れて狭くなった視界で、龍人はこちらへと飛び込んでくる少女の姿を、これ以上もなくはっきりと捉えていた。

 

(避け、られない)

 

 ひどく冷静に判断する。

 ガードはできるかもしれない。しかし、あの勢いでぶつかられたら、リングの上に押し倒されるだろう。それで、あの少女が止まるとは思えない。

 きっと、完璧に自分を破壊するまで、彼女は止まらない。

 

(死ぬ――か)

 

 加速した思考より先に、身体が反応した。

 あちこちが内出血し痣だらけの腕が、ゆらりと動いた。

 突撃してくる静香に合わせて、タイミングを取る。

 足が一歩前に出る。体中の関節が腕へ力を送るために理想的な動きを行う。

 腕がしなり、飛びこんでくる相手の無防備な顔へと吸い込まれていく――

 

 ――約束だよ。龍人

 

「っ?!」

ここでようやく思考が、身体に追いついた。

(と ま れぇぇぇぇっ!!!)

歯を食いしばり、全身に制動をかける。

 力の乗った腕から、ぶちぶちっ、と音がした気がした。

 構わず、龍人は拳を引いた。

 

 ――――ッッ

 

 静香の鼻先すれすれで、拳は止まった。

 静香も踏みこむような体勢で、静止していた。リング上に擦られた靴痕が残っていた。細い眼を丸くして、びっくりしたような表情をしている。

「……」

「……」

 リングの上でそのままの姿勢で固まる、少年少女。

 ふっ、と少年の腕から力が抜ける。

少女が居ずまいを正すように、身を起こす。

お互い目をあわさない。

気まずい沈黙が流れる。

 そして、

 

「……どうして」

 

静香がぽつりとつぶやいた。

「……」

 龍人はじっと次の言葉を待つ。

「……どうして、殴らなかったんですか」

 まるで恋人に裏切られたみたいな、そんな声音だった。

 一瞬、龍人は戸惑う。

だがすぐに、静香の目をまっすぐ見つめて、

 

「……約束、だから」

 

 言葉を口にし――

 

 ずだんッッ!!!

 

 次の瞬間、少女の打ち下ろすような右ストレートが龍人の顔にめりこんでいた。

 そのままかぶせるようにして、リングに叩きつける。

 マットの上で龍人の身体が大きく跳ねて、

 

(――怜、)

 

 動かなくなった。